(2014年2月18日更新)
佐賀県伊万里市 二里コミュニティセンター
地域の情報
1.町民憲章
私たち二里町民は、先人たちの築いた足跡を道標として
水と緑豊かな郷土の自然環境を守り、
一、 人間性豊かな人づくり
一、 連帯感あふれる町づくり
一、 未来を拓く夢づくり
に相努め、「明るく、活力のある豊かなふたさとの創造」を目指します。
2.町の花、木
シンボルマーク

腰岳の裾野に広がる二里町は、町の中央を流れる清流有田川が南から北に縦断する、緑に富んだ風光明媚な自然の美しい町です。町の中央に位置する二里小学校に学んだ人にとて、校庭にあるイチョウの木は思い出深いものです。そのイチョウの若葉に滝フジをあしらい、町の色である橙色で「二里」の文字をしたためました。葉の中央のくぼみで二つの里から成り立つ二里町と町内に住む老若男女を表し、フジはその心と心をつなぐ絆を意味します。ここに二里町民が一丸となり緑豊かな自然の営みの中で、共同・融和の精神を育み、心豊かなまちづくりを目指すシンボル(象徴)とします。
町の花

古子地区に整備、現存する「滝フジ」をまちづくりの要のひとつとして育てたいと考えます。
町の木

旧大里村、中里村はもとより、古くは八谷搦の人たちも二里小学校に学んでいる。その校庭にそびえるイチョウの樹木は、二里町民の記憶に永く残っている。この思い出深いイチョウは二里町の象徴木として相応しく、紅葉の季節は特に素晴らしい。
3.二里町の概要
明治22年(1889年) 市町村制施行により、二里村となる
昭和29年(1954年) 2町7村合併により、伊万里市となる
昭和52年(1977年) 二里公民館、現在地に建設される
令和2年(2020年) 二里コミュニティセンターに名称変更
- 人口 6,642人(男 3,221人、女 3,421人)
- 世帯数 3,059世帯
(人口・世帯数は2022年4月1日現在)
4.伊万里のお宝50選(二里町分)
申相撲(さるずもう)
二里町中田南平の小高い丘に、天孫降臨(てんそんこうりん)の功臣(こうしん)、「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」の巨大な石碑が建立されています。寛政(かんせい)3年(1791)11月29日に中里村大庄屋(おおじょうや)六代目、徳久太兵衛が中里村民を代表し、村を災いや悪霊から守るために建てたものです。猿田彦大神の「猿」にちなんで、毎年12月最初の申(さる)日に、その年の収穫に感謝するまつりをしています。12年に1度の申年は、盛大に奉納(ほうのう)相撲を行ないます。町内外の青年・小中学生対抗により競技が行われます。旧中里村の集落を三地区に分けて輪番でまつりを行い、世話役は数え年48歳の人を中心に「申年」生まれの人、全員があたることになっています。

申相撲
取り追う祭(とりおうまつり)
大里地区の神之原八幡宮(かみのはらはちまんぐう)で12月の最初の卯(う)の日の前夜に行われます。会所(えいしょ)で833個の御供(ごくう)さんというお供えのにぎり飯をつくり、ショーケという笊(ざる)に入れて祭場に運びます。祭場では攻め手が「打ーちゃえんかー」と叫んで御供さんが入った笊を奪い蓋(ふた)をあけようとします。3本の大松明(たいまつ)と30本の小松明を持った護り手が「押ーしゃえんかー」と叫びながら、松明の火の粉を浴びせます。ひとしきり松明合戦のあと、笊の奪い合いがあり、攻め手が笊の蓋をあけます。中の御供さんが氏子や見物者に配られてまつりは終わります。南朝方の菊池武重(きくちたけしげ)が足利(あしかが)方に敗れてこの地で神官になり、再起を期して火中訓練をしたのが始まりと言われていますが、御供さんを配って豊作に感謝する収穫祭と思われます。

取り追う祭
炭山棚田の彼岸花
(すみやまたなだのひがんばな)
二里町中里の炭山には棚田が広がり、彼岸花がとてもきれいです。自然に咲いているものもありますが、自分達でも植え付けています。赤色が主ですが白色も植え付けています。毎年の見頃(ごろ)は秋分の日前後、一週間位です。ぜひ見に来てください。

炭山棚田の彼岸花
藤山雷太翁の銅像
藤山雷太は元治元年(1864)に有田郷の大庄屋、藤山家の四男として二里町大里で生まれました。その日は大里の神之原八幡宮の祭日で藤山家のセンダンの木に落雷したので、雷太と名づけられたと言われています。長崎県会議員や芝浦製作所所長、王子製紙株式会社専務、大日本精糖株式会社社長、貴族院議員などを歴任し、政財界での活躍によって一代で藤山財閥を築き上げました。藍綬褒章や紺綬褒章を受章し、フランス政府やベトナム国王から勲章を受章しました。銅像はこれらの国際的な偉業を称えて建立されました。現在は、ゆかりの神之原八幡宮境内にあります。

藤山雷太翁の銅像
5.取り追う祭
開催場所 大里神原八幡宮
開催日 12月の最初の卯の日の前夜
注:12月第一丑の日に開催される八幡神社のおや神様祭りの後
松明合戦 PM8時40分
1.南北朝時代から続く由緒ある祭りです。
今からおよそ670年前の南北朝時代に、肥後の豪族で南朝方だった菊池武重(きくちたけしげ)が、北朝方との戦いに敗れ、伊万里市二里町大里に逃れてきた。
武重は、大里の神原(かみのはら)八幡宮の神官になり、南朝方の再起をはかるため、火中、煙中、冷水の中にも耐えることができる精神を養うために、火中訓練をしたのが、祭りの始まりと伝えています。
平成21年3月11日、文化庁から、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財とて選択されています。

2.松明合戦が見せ場です。
祭りの最大の見せ場は、松明(たいまつ)合戦です。合戦のときは、新米のもち米を丸くにぎった「御供(ごくう)さん」を833個入れた笊(テボまたはシューケ)を、攻め手が奪おうとします。松明をもった守り手が、それを防ごうとします。松明を打ち付けて、攻め手に火の粉を浴びせます。守り手は手に持った榊(さかき)の枝で火の粉をはらいます。しばらくすると、笊の奪い合いがあり、攻め手が笊の蓋を開けます。笊の中の御供さんを、氏子たちに配って祭りは終わります。
敵の城を「取り」、敵兵を「追う」のが、祭りの名前の由来といわれていますが、笊を奪い合う、「取り合う」が祭りの名前の由来でしょう。
笊を奪い合うのは、もとは、中の御供さんを激しく揺すり、古神道(こしんとう)の「魂振り(たまふり)」の呪術によって御供さんに込められた神の力を増そうとしたのだと思われます。その御供さんを食べることで、神の力を、氏子みんなで分け合い、長寿や健康を祈るのです。



3.むかしからの伝統がよく守られています。
祭りのときに、祭りの当番家である会所(えいしょ)で使う水は、前日に汲んだ「神さんの水」以外は使えません。神へのお供えの「御供(ごくう)さん」も、この水で調理します。御供さんをにぎるときは、榊(さかき)の葉をくわえ、息がかからないようにしてつくります。御供さんの数は833個と決まっており、これは、菊池武重と北朝方の戦の戦死者の数といわれています。
松明は、大松明が3本と小松明が30本の33本です。松明に灯す火は、神職が起こした特別な火です。
菊池武重が大根畑でケガをした(片目になった)ので、祭りでは、大根を食べてはならないとされています。伊万里地方では、祭り食やお供えにかかせない「カケヤー(かけあえ:一般的には大根と魚介を酢味噌であえたもの)」も、大根ではなく、カブを代用しています。


4.祭りをとおして地区民の融和がはかられています。
祭りは、1月の竹伐りからはじまり、11月に松明づくりやしめ縄づくり、祭りの場所の準備を行います。
祭りの本番は、大里地区内の当番の班の会所(エイショ)が中心になって行いますが、合戦の攻め手や見物、祭りの反省会である通夜(とうや)など、祭りに、さまざまな形で地区民がかかわっており、地区民同士の交流による融和が図られています。
