(2014年7月1日更新)
江戸時代、主に大川内山で、佐賀藩(通称、鍋島藩)が焼いていたやきものが鍋島焼です。まず1650年代に有田町の岩谷川内でつくられた製品が徳川将軍家へ献上されるようになり、その後1660年代ごろには大川内山の日峰社下窯でつくられた製品が献上されるようになりました。延宝年間(1673~1680年)ごろに大川内山で鍋島藩窯の組織や制度が確立し、献上品の製作が本格化したと考えられています。明治3年(1870年)に鍋島藩窯が廃止されるまでつくられました。
Q1.伊万里焼(古伊万里)と鍋島焼とは、どこが違うのでしょうか?
A1.江戸時代に肥前(佐賀・長崎県)で焼かれた磁器をひっくるめて伊万里焼と呼びます。伊万里津(港)から船で各地へ積みだされていったからです。伊万里焼は商品として民間の窯で大量につくられました。鍋島焼は将軍家への献上、幕府の重臣や他藩の大名などへの贈り物、鍋島家が普段使うためだけに、鍋島藩の窯でつくりました。
Q2.なぜ鍋島焼を将軍への贈り物にしたのでしょうか?
A2.鍋島藩は鍋島焼を贈り物にしたために、外様大名であったにもかかわらず、江戸時代を通じて取りつぶしや領地替えをさせられることはなかったといわれます。鍋島焼は日本一のやきものとされていたので、贈られた将軍は大変喜んだのではないでしょうか。
鍋島焼の種類
染 付
●白磁に呉須(藍色)絵の具
だけで描かれたもの。
(染付岩山吹文皿)
色 絵
●染付に主に赤・黄・緑で
絵つけされたもの。
(色絵草子散文皿)
青 磁
●深い青緑色の釉薬が
かかったもの。
(青磁三足付皿)
※そのほかにも、これらを組み合わせたものがあります。
鍋島焼に描かれた主な絵
具体的な物を描いたもの。
(染付秋草文皿)
規則正しい模様の組み合わせ。
(色絵更紗文皿)
山水画的なもの。
(染付山水文鉢)
裏には模様を三方に描いています。
(染付竹葉文皿)
高台(底につく台の部分)が高く、
模様があります。櫛の歯に似た
模様(櫛歯文)が多く描かれています。
(染付花柘榴文皿)
鍋島焼の大きさ
5寸
(色絵蟹牡丹文皿)
1尺
(染付岩山吹文皿)
直径1尺(約30cm)、7寸(約21cm)、5寸(約15cm)、3寸(約9cm)の定まった大きさでつくられています。
鍋島焼の形
●見込み(皿の内側)が深く、
木盃のような形をしています。
(色絵草子散文皿)
鍋島焼の絵つけ
色絵蟹牡丹文皿(部分拡大)
●絵つけは輪郭線からはみ出しません。
●色をつける部分には、薄い藍色で下絵線を書いています。
●線は一定の太さです。
Q3.なぜ皿の大きさや形、色のつけ方などに決まり事があるのでしょうか?
A3.鍋島藩がやきものづくりを管理しやすくするために決めたのだと考えられます。
墨はじき
50 色絵紗綾文桃形皿(部分拡大)
墨で模様を描き、その上から呉須(藍色)絵の具で塗りつぶして窯で焼くと、墨の部分だけが燃えて、呉須絵の具を弾き飛ばしてしまうので白抜きのもようができます。その方法を墨はじきといいます。鍋島焼では墨はじきの方法を使って連続した模様をつけることがよくあります。
鍋島藩窯
鍋島藩窯は藩が直接運営し、分業などの仕組みが整っていたといわれています。鍋島焼を作る陶工は武士と同じように藩から給料を貰い、名字を名乗ることを許されていましたが、管理する役所があり、出入り制限されるなど厳しい決まりがありました。
Q4.なぜ焼き物づくりを藩が管理したのでしょうか?
A4.好みについてうるさい将軍や藩主といった人びとが使う器ですから、将軍や藩主が気にいるような良い品物を陶工たちにつくらせるために、藩が直接管理したのです。
Q5.鍋島焼はいくつ、つくられたのでしょうか?
A5.1年間におよそ5千個ほどと決まっていました。一方、伊万里焼は年間何10万個もつくられました。
今の鍋島焼
Q6.鍋島焼は1個で何億円もするといわれるくらい値段が高いのはなぜでしょうか?
A6.いっさい手抜きをすることなくつくられていますから芸術性が高く、しかも鍋島藩窯だけでつくられていたために、現在まで残っている数が極めて少ないからです。
Q7.現代の伊万里焼とは、何ですか?
A7.江戸時代の伊万里焼(古伊万里)の伝統を受け継いでいるのが有田焼です。鍋島焼の伝統を受け継いでいるのが大川内山で焼かれている現代の「伊万里焼」です 。