(2014年7月2日更新)
江戸時代に肥前(佐賀・長崎県)で焼かれた磁器が伊万里焼(古伊万里)です。江戸時代初めの1610年代ごろから江戸時代終わりごろ(明治期を含むことがあります)までつくられました。
Q1.伊万里焼(古伊万里)は、どこでつくられたのでしょうか?
A1.佐賀県の有田や塩田、長崎県の波佐見、三川内などで、主につくられました。塩田の製品は志田焼、三川内の製品は平戸焼ともいいます。
Q2.なぜ伊万里焼(古伊万里)というのでしょうか?
A2.江戸時代に伊万里津(港)から船で各地へ積み出されていったからです。つくられた産地ではなく、港の名前をとって伊万里焼と呼ばれたのです。
伊万里焼(古伊万里)の主な種類
白 磁
●素地に透明な釉薬をかけて
白さを活かしたもの。
(白磁杏葉形皿)
染 付
●白磁に呉須(藍色)絵の具
だけで絵を描いたもの。
(染付唐獅子牡丹文壺)
色 絵
●白磁や染付に赤や金などの
上絵を描いたもの。
(色絵仙人文皿)
青 磁
●青緑色の釉薬をかけたもの。
(青磁太鼓形香炉)
瑠璃釉
●透明釉に呉須絵の具をまぜた釉薬をかけたもの。
(瑠璃釉金彩牡丹唐草文皿)
鉄 釉
●鉄分の多い釉薬をかけたもの。錆釉・黄釉・鉄漿などがある。
(錆釉陽刻捻雲文皿)
※そのほかにも、これらを組み合わせたものがあります。
伊万里焼(古伊万里)の始まり
染付花散文皿
伊万里焼(古伊万里)は文禄・慶長の役(1592~98年)で朝鮮半島から来た人びとの手で、1610年代ごろに、有田町中部あたりでつくり始められました。有田町の泉山で原料になる陶石が発見されると、有田町東部に窯場の中心が移りました。1610~40年代ごろにつくられたものを初期伊万里といいます。朝鮮半島を源流とする唐津焼(古唐津)と同じ技法で作られました。生がけ(素焼きをせずに釉薬をかけること)で焼いたものが多く、皿の場合は、直径に比べて高台径が小さいのが特徴です。
伊万里焼(古伊万里)の主な様式
中国の、明から清への王朝の交代の影響で、17世紀中ごろから後半にかけては、世界最高水準を誇った中国磁器が、まったく中国国外へ輸出されなくなりました。代わりに、日本の伊万里焼(古伊万里)の技術革新が進み、中国磁器を凌ぐ芸術性を持つようになりました。
古九谷(初期色絵)様式
色絵鶴文皿
●1640年代に色絵磁器がつくられ始めました。古九谷(初期色絵)様式は鍋島様式成立の母体と考えられています。
柿右衛門(延宝)様式
色絵梅鶯文皿
●1660~90年代ごろに余白が多い和風のデザインが流行し、ヨーロッパ磁器の始まりに大きな影響を与えました。
古伊万里様式
色絵幔幕花鳥文輪繋鉢
●1690~1740年代ごろに金彩を多く用いた豪華な作風が流行し、国内外の富裕な人びとに珍重されました。
Q3.伊万里焼(古伊万里)は、どこへ運ばれたのでしょうか?
A3.日本各地はもちろん、長崎の中国商人やオランダ商人の手で、東南アジアや中近東、ヨーロッパまで運ばれ、王侯貴族の宮殿を飾りました。
Q4.ヨーロッパの王侯貴族は、どうして伊万里焼(古伊万里)を宮殿に飾ったのでしょうか?
A4.そのころのヨーロッパでは、磁器をつくることができませんでした。はるばる東洋から運ばれた伊万里焼(古伊万里)は宝石のように美しく、また、手に入れることが難しかったので、権力の大きさを示す為に飾ったのです。
Q5.海外へは、いくつぐらい運ばれたのでしょうか?
A5.17世紀後半から18世紀前半にかけて、記録に残っているだけで200万個以上が運ばれています。17世紀末には中国が輸出を再開し。18世紀前半にはヨーロッパでもマイセンなどで磁器がつくられるようになったので、18世紀後半にはほとんど輸出されなくなりました。
Q6.国内へは、いくつぐらい運ばれたのでしょううか?
A6.17世紀末から18世紀はじめに長崎県の波佐見などで「くらわんか茶碗」という、ねだんの安い磁器がつくられるようになると、伊万里焼(古伊万里)は日本中で使われるようになりました。武士などの一部のお金持ちの人々だけでなく、大部分の人々に、丈夫で清潔感のある磁器が広まり、暮らしにうるおいと豊かさを感じさせました。国内では、江戸時代後期の天保六年(1835年)だけで30万俵以上が伊万里津から積みだされています。
Q7.古伊万里と伊万里焼は、どこがちがうの?
A7.明治30年(1897年)に門司・有田・佐世保間に九州鉄道が開通すると、やきものは船よりも鉄道で運ぶようになりました。やきものは有田焼、伊万里焼、志田焼、波佐見焼、三川内焼など、産地の名前で呼ぶようになりました。江戸時代の伊万里焼を、現代の伊万里焼と区別して「古伊万里」と呼びます。
色絵菊花文壺ランプ仕立
色絵太鼓乗人形